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「小屋の本」書評を書いていただきました

デザイナー・アーティスト・建築家・編集者・文筆家・キュレーター・研究員・市長
多方面に活躍される様々な研究者に「小屋の本」の書評を書いていただきました。

農具小屋には、近代が資本制とともに生み出した商品としての“デザイン”がない。使う者、見る者、通りすがりの者への押し付けがましさが持つ嫌味がないから清々しい。御堂筋や表参道の論理とは地球と冥王星くらい離れている。労働で稼いだお金でショッピングして家に帰る。この一連の行動はそれぞれ別々の場所でおきている。農具小屋は場所と仕事とその使用、生活が分かち難く結びついているのが素晴らしい。生き方のお手本では。

dot architects 家成俊勝

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どの小屋の写真も、ついつい、じっくり見入ってしまう。誰が、どんな目的でつくったかももちろんですが、それ以上に、小屋そのものと、小屋のある風景が重ねてきた時間に思いを馳せてしまうのです。眺めるうちに、それぞれの物語が、ゆっくりと立ち上がってくる。それは、亀岡というまちに息づきながら、世界のさまざまな場所の記憶を呼び覚ましていくような、静かな声の重なりやつながりであるように思えてならないのです。

編集者・文筆家  村松美賀子 

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私たちは、目の前の景色を、なんと視野の狭いままに眺めていたのだろう。それどころか、見えないものの方にずいぶんと囚われ、見ることや関係することを早々に諦めてしまったりもする。この本は、風景の正しい届け方を知っているらしい。ひそやかに佇んできた小屋には、企みや威襲性などかけらもない。(小屋の維持には持ち主のちょっとした企みが働いているかもしれないけれど。)
「ただある」ことをここまで魅力的な事柄として引き出すために、好奇心を丹念な調査の時間として注いだ友人たちに、心からの賛辞を送る。

みずのき美術館キュレーター 奥山理子

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「かめおか霧の芸術祭」から育った「たくましい『野良』の芸術」作品。本の形をした「小屋」に入る旅。ページをめくる毎に、伝染性の高いそれぞれの好奇心と視点を持った四人の著者が、亀岡を巡る散歩に連れて行ってくれる。そして、一年以上をかけて見つけたたくさんの小屋の中のいくつかを共有させてくれた。今、世界的に小農の営みの重要性が見直されている。そんな営みには欠かせないこうした小屋が、もっとたくさん、多様に存在する未来であってほしい。

総合地球環境学研究所 研究員 小林舞

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田園風景のなかにぽつんと佇む小屋が好きだ。
田畑の近くに建っているのだから、農機具を置いておくための小屋なのだろう。単独で毅然とした姿で建っているものもあるし、樹木の寄り添うように建っているものもある。しかし、なぜ小屋に惹かれるのだろう。同じく「小屋が好きだ」という人がいるとしても、その理由はそれぞれ違うはずだ。では、私はなぜ小屋に魅力を感じるのか。良い機会なので少し考えてみたい。
矛盾しているようだが、あの小屋が農機具小屋であると意識した瞬間に少し魅力が減じる。あの小屋は、単に農機具を置いておくだけのものであって欲しくない、という気持ちが私の中にある。それは、実際に小屋の中を見せてもらったときに確実な感情として確認される。小屋の扉を開けてもらい、埃っぽい空気のなかに使い古した農機具が並んでいる光景を目にすると、外側から眺めていたときの勝手な幻想が打ち砕かれていくような感覚になる。まして、小屋の壁や扉がなく、中に保管してあるものが露呈しているような場合は近づきたいとも思えない。透明な壁で中身が外から確認できるような小屋にも魅力を感じない。小屋のなかに農機具しか置いていないという事実にがっかりしているのがわかる。
では、私はどんな幻想を抱いていたのだろうか。思いつくままに書いてみる。
まず、小屋の中にはソファがあって欲しい。それもデイベッドのように少し横になって眠れるようなやつだ。それと調理台。周囲に広がる田畑で収穫した新鮮な野菜を調理するための台だ。そして、友人たちと囲む食卓とイスも欲しい。イスのいくつかは小屋の外に並んでいてもいいだろう。風景を眺めながら食事をしたり、談笑を楽しんだりできる。今までしっかり考えたことは無かったけれども、改めて思い起こしてみると私が小屋の中にあって欲しいと思っているのは以上のようなものどもだ。
そして、小屋のなかで営まれていて欲しいと思う行為は、以上のようなものを使って行われることどもだ。さらに考えてみる。
なぜそんな小屋であって欲しいのだろう。周囲にある田畑から収穫されたものを調理し、友人とともに食事し、疲れたらベッドで眠る。心のどこかで、そういう暮らしに憧れているからだろう。「それで十分だ」という気持ちがあるのかもしれない。現在の私の生活は複雑になりすぎている。自宅には多くの物があふれ、それらを購入するための仕事は複雑さを増しており、ゆったり過ごす時間を確保するのも難しい。家賃は高いし、食費もそれなりに高い。もし田園風景のなかにぽつんと佇む小屋で暮らすことができたなら、家賃や食費は低く抑えることができるし、その支払いのために働く時間を減らすこともできるだろう。そうやって生まれた余剰の時間を使って、農地を耕し、収穫したものを調理し、友人とともに気ままな時間を過ごす。疲れたらぐっすり眠る。私は小屋を眺めながら、そんな幻想を抱いているのだ。
ところが実際に小屋の内部を見ると、ソファも調理台もテーブルもイスもない。農機具が並ぶだけで、そこに生活の痕跡はない。だから、がっかりする。勝手な話である。こちらが抱いた幻想に照らし合わせて一方的に幻滅しているわけだ。
しかし、こうしてじっくり考えてみると、自分が心の底でどんな生活を理想としているのかがよくわかる。だから定期的に小屋を外側から眺めたいと思う。内部は知らなくてもいい。外部から眺めながら、その内側にあって欲しい光景を夢想する。それが自分の理想の生活に近いことを確認しながら。
『小屋の本』は私にとって、書斎に居ながら理想の生活を再確認させてくれる本だ。内側が農機具置き場であることを明かすページもあるが、そこは読み飛ばすことにしている。外観のページばかり眺めながら、その内側にあって欲しい生活を勝手に夢想する。たまに、小屋の外側にイスが置いてあるページや、薪ストーブの煙突が設置されている小屋などを見ては、すでに理想的な生活を実現している先輩に嫉妬する。しかし、実際に出かけていって内部を見せてもらいたいとは思わない。きっと、私が理想化したほどの生活ではないはずだからだ。
ときおり『小屋の本』を開いて、自分にとって理想の「簡素な生活」を想像し直すこと。あるべき生活を再確認すること。これが私の人生にとって大切な時間となっている。

studio-L代表・コミュニティデザイナー 山崎亮

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霧の芸術祭がイノベーションを起こしながら、霧のまち亀岡の課題や魅力をプロモーションし始めた。
普段見慣れた田舎の景色、その田園風景の中にひっそりと建つ農小屋、この農小屋がクリエーターから見ると魅力的な労働の芸術作品だというのだ。
亀岡の農家がお金をかけず、身近にある資材で時間と手間を惜しまず作ったのが農小屋だ。
場所により採れる作物や、農業への取り組み方によって形や素材そして機能が違うようだ。その特徴が改めて観ると面白い。
今回1年以上の歳月をかけ、亀岡市内にある300軒以上の農小屋を調査し、分析するとともに、一軒一軒その農小屋の特徴を見つけ出し愛称名をつけ、建築視点で解説を施した。
絶滅危惧されている農小屋、市内では440ヘクタールの国営緊急農地再編整備事業が進み始め、農地整備によりだんだん姿を消している。
「労働の芸術」これらの作品をどのように後世に残し伝えるべきか?
この本がきっかけで、亀岡駅北の曽我谷川を挟んだ、従前スタジアム建設予定地だった13.8ヘクタールの土地をグリーンインフラの公園として整備するにあたり、京都丹波・亀岡の農の原風景として再現し、その中の市民農園エリアに農小屋を配置し、ダーチャ・クラインガルテンのコミュニティ拠点として整備していく案が持ち上がった。
できればこの公園づくりも霧の芸術祭とのコラボで作り上げていきたい。
この公園に配置する農小屋を、芸術家や若手建築家の参加により、公募による農小屋づくりを進めたいと考えている。この公園の完成時には、20軒余りの農小屋が市民農園に配置され多くの市民が思い思いの農小屋で農業の楽しさや、人と人との交流を楽しむことだろう。
その参考書がこの「小屋の本」だ。

亀岡市長 桂川孝裕

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小屋の対義語は豪邸ではない。小屋は、豊かさとか貧しさといった尺度を超えた存在なのだ。小屋を前にすれば、ヒトはみな裸で、みな平等だ。それに、収納できるモノの量にも限りがある。必要なモノだけが生き残り、余計なモノは消えていく。裸のヒトと必要なモノ。けれど、小屋の魅力はさらにそれを超えたところにあるらしい。小屋の仕草、化粧、意地、破れかぶれ、いきあたりばったり。この本には、そんな人間らしい小屋の魅力がたくさん詰まっている。

春日部幹建築設計事務所 春日部幹

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「モノ」に関心を持つということが日頃あまりない僕にとって、亀岡という固有の地域の表情を、小屋という物体を通じて浮かび上がらせる、その態度に魅せれらました。全国各地の小屋リサーチ本ではなく、限定された地域でのそれを取り上げることで、「どんな人が作ったのだろう!?」と想像する。いや、それ以前に小屋そのものが自ずと「このまちの人」として擬人化され、読者に語りかけてくる。地域をこんな方法でまなざすことができるのは、私たちの足元の生活をふわっと異なる次元に誘ってくれるような、意識が広いところに出られるような、そんな気分になります。個人的には、人の行為や行為が関係し合いながら生まれる「コト」に関心を持ってきましたが、そもそも「コト」には「モノ」が含まれるし、その逆も然り、なのですね。

文化活動家 アサダワタル

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2000年ころ、世界の小屋を集めた分厚い写真集と出会い、驚いた。小屋をテーマに写真集ができるのかと!小屋でできるなら、他に何かできないか!美術家の横尾忠則さんの「Y字路」は有名だ。僕がテーマとしているのは、「X(何かと何かのまじわり)だ。「小屋の本」を手にとると、あなたのまなざしが変わるだろう。あなたは何をテーマとするか。何を追いかけるのか。小道や曲り道、ユニークなかたちの田んぼもいい。亀岡にいっぱいあるものばかりだ。

半農半X研究所 塩見直紀